僕の記憶が確かならば、たぶん中学3年生の夏、昭和48年(1973年)8月だと思います。
その頃は、自転車少年でした。標高差1000mくらいの峠道は平気で登って、元気いっぱいでした。
静岡県、富士山のふもとの富士宮市に親戚が住んでいたので、両方の家族そろって富士山登山をすることになりました。
自動車で新五合目まで行って、富士山に登るだけじゃ、ちっともおもしろくないので、全行程、自転車で登頂するのにチャレンジしました。
とりあえず証拠写真、当時は富士山頂の証は木でした。これ抜いて木を抱いて撮影した写真もたぶん実家のアルバムには残っているんじゃないかな。

早朝、自動車組よりは、ずいぶん早く自転車で出発、標高約2400mの新五合目まで一気に登ります。もちろん全部自転車こいで登りました。自動車組よりずいぶん早く到着してしまいました。
新五合目で、下りでは必要のない自転車の変速機のレバーとか、キャリアとかをはずして少しですが軽量化して、いざ山頂へ。登山道は、自転車を押すか、かついで登るかどちらかです。途中の山小屋でほとんど、話しかけられました。自転車もって富士山登った奴は見たことないって。バイクのカブ押して登った人はいるそうです。
九合目までは順調でしたが、9合五勺の山小屋の手前で事件はおこりました。なんと自転車という金属のかたまりをもった僕の、5メートルほど先の岩に雷が落ちたのです。先に小屋に着いていた、家族と親戚一同は、上から僕の名前を大声で叫んでいました。
落雷した岩の付近から閃光とともに煙が出たのを今も、はっきりと覚えています。
あとにも、先にも、人生はじめて、腰を抜かした状態でしばらく立ち上がれませんでしたが、上からはみんなが、「早く登ってこないと危ない!」と叫んでいるので、なんとか山小屋にたどりつきました。
当初は、そのまま日帰り登山の予定でしたが、オヤジも高山病らしき症状で、9合五勺の山小屋に1泊して、翌日山頂を目指すこととなりました。
翌朝、症状の良くならないオヤジを山小屋に置いて、山頂を目指します。残りわずかなので、あっという間に鳥居くぐって山頂に到着。さらに最高峰の剣が峰を目指します。当時はまだ富士山測候所も稼働してたんですね。剣が峰に到着、そこで撮影した写真が上の写真です。
富士山の火口を一周する、お鉢巡りもして、下山開始です。僕は途中で、みんなと分かれて、ルートを須走、宝永山経由で下山します。砂の上ですが、自転車に乗ったまま下ることができます。楽チンです。途中、上の山小屋に荷揚げするブルトーザーとすれ違いました。あっという間に宝永山の火口を経由して、新五合目に到着です。ここでもみんなを待ちました。
さあ、下りです。標高差2000m以上を下るのは初めてです、ブレーキが焼き付かないように気をつけないとだめです。スピードはカーブ以外は、時速50〜70キロ、自動車より速いです。親戚の家に到着すると、ほとんどブレーキのゴムはなくなっていました。
少し一服しましたが、あとひと仕事残ってます。これから、駿河湾に面する富士市の海岸まで行って、自転車を海水につけて戻ってくれば、これで順番は前後しますが、純粋に3776mの標高差を自転車とともに完登したことになります。
別に、標高2400mまで自転車こいで上りきった僕にとって、ほんの20キロ少し自転車で走る事なんて、朝飯前っていうか晩飯前の軽い準備運動みたいなもので、小1時間で任務完了。
最近登山ブームで、思うんだけどさぁ〜!エベレスト登頂にしたって、結局標高5000mくらいから登るわけでしょ。だったらもっと上まで飛行機かヘリコプターで上がって登頂しても同じ事だと思うんだ。ロープウェイで山頂近くまで登って登頂するのと変わらないと思うのよ。悔しかったら、インド洋から歩いてエベレストの山頂まで登ってみろよ!あっ!別に途中までは自転車でもいいけどね。
登ったことのあるものだけが偉そうに言えることだって、わかって書いてます。